ひとりごと

2016/10/20
禅 特別展
東京国立博物館の平成館において、臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念の特別展が開催されています。11月27日まで。

臨済宗・黄檗宗の各寺院などから選りすぐりの作品が展示されているだけあって、

第1章 禅宗の成立
第2章 臨済禅の導入と展開
第3章 戦国武将と近世の高僧
第4章 禅の仏たち
第5章 禅文化の広がり

と、非常に幅広く、チラシにも「国宝22件・重文102件、禅の名宝東博に集結!」とあるように、興味深い展覧会です。

小生は昨日19日、午前11時からと午後2時から、「禅トーク」の担当。平成館の1階ラウンジで約20分、話をさせていただきました。

このお話をいただいたとき、何を話そうか迷っておりましたが、お二人の遠諱ということで臨済禅師と白隠禅師の教えから話を展開しました。

拙い話でしたが、予想をはるかに超える大勢の方にお越しいただきありがとうございました。おかげさまで、午後の「禅トーク」は大講堂で行うこととなり、非常に慌てふためいてしまいました。

「禅トーク」というよりは、「講演会」のような雰囲気となってしまいましたが、今さら原稿を変更するわけにもいかず、物足りなく感じた方もいらしたと思います。


作品は非常に充実していました。個人的には蘭渓道隆禅師坐像と油適天目に見入ってしまいました。

10時ごろ入館してから16時過ぎまで、「禅トーク」の合間を縫って、音声ガイダンスを聞きながら何回も拝見させていただきました。

禅に興味のある方は是非ご覧いただきたいと思いますし、既にご覧いただいた方も期間中に展示替えもあるようでし、「禅トーク」や「写禅語」などのイベントもありますので、もう一度足を運んでいただきたいと思います。

会期の後半には、新発見の白隠禅師の禅画が公開されるようです。

禅の心をかたちにした作品の数々、きっと満足することと思います。

展覧会については、下記をご参照ください。

http://zen.exhn.jp/
2016/09/26
何してますか?
先日、お檀家の法要を終え、お斎の席でのこと。
親戚の方から、「土日は法要をしているだろうけれど、平日は何してるんですか?」と問われ、思わず絶句してしまった。

「ええ、掃除をしたり、境内の手入れをしたり、塔婆を書いたり、葬儀に行ったり、たまに本山に行ったり・・・」と言ってみたはいいけれど、後で「俺はいったい何してるんだろう」と首をかしげてしまった。

思えば私の尊敬する布教師の先輩も、修行道場の老師から「最近何しとる」と問われ、「はて、ワシはいったい何しとるんだろうか」と考え込んでしまったそうである。

中国の唐の時代に趙州(じょうしゅう)和尚がいた。60歳で行脚の旅に出、80歳で趙州の観音院に住して、120歳で亡くなるまで弟子たちを教化した名僧である。

その趙州和尚にある僧が尋ねた。
「時間は刻々と容赦なく過ぎていきますが、1日24時間をどういう心構えで過ごしたらよいでしょうか」と。

すると趙州和尚曰く、「あなたは時間に使われているが、ワシは自由に時間を使っているよ」と。

時間に使われていくのか、時間を使っていくのか。

無論拙者は前者であった。

あなたは忙しいだろうから、あなただけ1日25時間あげますよ、ということはない。あたかも太陽の光や雨が平等に降り注ぐように、時間も平等に与えられている。

その時間に使われるのではなくて、使っていく。そうすることが時間を無駄にしないことであり、その積み重ねが中身のある1日となり、さらには充実した一生となるのであろう。

とてもいい勉強をさせていただいた。

あなたは答えられますか?
「普段、何してますか?」
2016/09/03
愛媛県佐田岬へ
先月末から3日間、愛媛県へ行ってきた。佐田岬、八幡浜、宇和島、そして松山へ。

これは父と縁があった東京四谷の茶の湯文化研究所青山会(せいざんかい)が主催する旅行で、小生も何回か話をさせていただいており、ご一緒させていただいた。

最大の目的は佐田岬の伝宗寺(でんそうじ)様へ行くことだった。

伝宗寺の和尚様は父を師と仰ぐ、先輩の布教師でもあり、ご本人も青山会でお話をすること数度。その縁で今回の旅行が実現したのである。

佐田岬への道のりは険しいものだったが、右側に瀬戸内海、左側に宇和海の景色はまさに絶景そのもの。

伝宗寺の山門付近には樹齢千年強のクスノキが私たち一行を迎えてくれた。


楠木千年 さらに今年の若葉なり


荻原井泉水の句である。

楠木は常緑の木であり、年中いつ見ても青々としている。しかし楠木千年といっても、千年前の葉が目の前にあるわけではない。毎年散っていくのである。

しかし、「さらに」!「さらに」!今年の若葉なり。

毎年毎年若葉が出てくる。その積み重ねが千年ということであろう。

私は楠木の話をしたいのではなくて、私たちの命も同じだということ。私たちが今こうして生きているということは、突然私たちは生まれてきたわけではあるまい。先祖代々命が受け継がれてきたのである。

人間誰しも今年の若葉だった。そして誰しもこの世を去っていかねばならない。こうした命の連鎖を繰り返しながら、私たちは、いま・ここに生きている。何と不思議なことであろうか。

いまここに、無数のご先祖が私一人のいのちになっている。だからいただいたいのちを大切にし、いのちを全うしていくことが供養ともなり、恩返しともなるのである。

この句は泰道和尚の18番であった。受け継がれたいのちに感謝をしながら、伝宗寺を後にした。

2016/08/04
子どものようなこころ
先日、知人との会話の中で、「ことな」という造語があることを知った。

「子どものようなこころを持った大人」という意味らしい。
「いいですね、そうありたいものです」と答えたら、鼻で笑われた。
どうやら大人になりきれない、幼稚な大人のことを指すらしい。

それも当てはまるけれど、それで終わらせてよいのだろうか。

執着、妄想、分別し、迷っているのは「子どものような心を失った大人」ではなかろうか。

雨の日に両手を広げて雨を受け止め、出かけるときは買ってもらった長靴や傘を喜んで使う子どもたちを見て、雨の日には雨の日なりの、晴れの日には晴れの日なりの過ごし方、楽しさ、受け止め方があるのだと思った。

良寛さんが、子どもたちと毬つきをして遊んだのも無関係ではあるまい。

慌ただしい日々が続くけれど、こういうときだからこそ、子どものようなこころに立ち返りたいものである。
2016/07/29
進一歩
先日、都内で施餓鬼法要の法話を終え、岐阜県美濃加茂市へ向かった。
布教師の勉強会である。講師は私の尊敬する布教師の一人である正覚寺の足立師。テーマは「三宝の恩」であった。

それぞれが日頃の勉強の成果を発表し、終れば容赦ない批評や質問が矢の如く飛んできた。

私たちは人前で話をしなければならない。同じ話をするのも一つの手だけれど、相手は小学生から年配の方々までさまざま。
お医者さんが病に応じて薬を出すように、我々も対機に応じて話をし、安心を与えていく。

だからこそ、日々勉強していかなくてはいけない。

「進一歩」
今の自分に満足することなく、とどまることなく、常に精進していくことが大切だ、泰道和尚の私への遺言である。

善き師、善き仲間と出会えたことに感謝し、このご縁を大切にさらに一歩進めていきたいと思う。

それが7年前の今日亡くなった泰道和尚への恩返しとなろう。

*写真は小瀬(おぜ)の鵜飼い。

2016/07/19
かわかないこころ
夏の強い西日を少しでも和らげるために、緑のカーテンを始めて2年目。朝夕の水やりがここ最近の日課である。

茨木のり子さんに『自分の感受性くらい』がある。


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


あっという間に半年が過ぎ、7月も半分が過ぎた。

平生の慌ただしさの中で、仕事が捗らないと苛立ち、勉強する時間がないと頭を抱えていた「わたくし」。「ひとのせいに」し、「近親のせいに」し、「暮らしのせいに」していた「わたくし」。
なにもかもがひよわで、ばかものだったのだ。
「わたくし」のこころは、ぱさぱさに乾いていたのだ。

思いどおりにいかないと、原因を外に求めがちである。人のせいにしがちである。

これから訪れるであろう本格的な暑さと慌ただしさ。さあ、明日からでもこころにも水やりをしよう。環境のせいにするのはやめよう。なすべきことを熱心にやっていこう。

こころに潤いを。「かわかないこころ」それは亡き師父の人生のテーマであった。
2016/07/01
花明かり
父が晩年よく使っていた言葉がある。

「花明かり」

人を喜ばせようとか、手を差し伸べようとか、そういったはからいもなく、ただそこに花が咲いているだけで周りが安らぐ。
花にはしこりがない。きれいに咲こうとか、もっと人目のつくところで咲こうとか、はからいがないから美しいのだ。

思いどおりにならないことに引きずられるのではなく、さりとて置かれた環境を責めるのでもなく、花のようにその時々のご縁に身を委ねていく。はからいもなく、しこりもなく、ご縁のままに向き合っている姿がそのまま仏となり、光となって周りを照らすのだ。

「花明かり」とはそういう言葉であろうかと思います。
2016/06/17
第18回建長寺法話スペシャル
今日は鎌倉の建長寺様で行われた、第18回法話スペシャルにお招きいただいた。昨年もお邪魔させていただいたが、和尚方が15分の法話を次々にリレーをするというユニークな企画。

テーマは「求不得苦〜合掌一礼の心〜」。「求めるものが手に入らない苦しみ」。四苦八苦の一つであり、我々が避けることのできない苦しみである。

「この苦しみは無くならない。この苦しみとどう向き合うか」ある和尚が言ったこの言葉、なぜだかわからないけれども、胸にグサッと突き刺さった。

それにしても15分の法話はやはり難しい。話を長くすることはできるけれど、15分で聴衆を惹きつける話をすることはやはり難しい。

「余計な話をせずに、スマートな法話を」とよく言われたものだが、結果は余計な話をして、時間超過であった。

「出力も大事だが、入力も大事だぞ」横田管長のお言葉である。「勉強も大事だが、人の話を聞くことも大事だ」ということ。

建長寺派の和尚様だけではなく、妙心寺派や黄檗宗の和尚様も参加されて、色々なお話を拝聴することができて非常に有意義な時間であった。

〜実るほど頭を垂れる稲穂かな〜
稲のように、人間も頭が下がるにはどうしたらいいのでしょうか。今日の私の話でした。

2016/06/17
住職研修会
6月13日から2日間、円覚寺派の住職研修会が本山の円覚寺で行なわれた。

1日目は鈴鹿市の東福寺派大泉寺のご住職である衣斐弘行師をお迎えしての布教講習会。

2日目は横田管長による「戒名と引導法語について」と、全日本仏教会顧問弁護士の長谷川正浩先生をお迎えしての「寺院運営をめぐる諸問題について」。

どれも我々とっては重要なものばかりで、非常に充実した時間であった。現状にあぐらをかいている場合ではありません。日々是勉強。

2016/06/07
墓参り
昨日6月6日は師父である哲明和尚の祥月命日。
在家の方と同じように、我々も墓参りをします。

6年前、駆け抜けるようにして70歳でこの世を去った父。
「朝には紅顔ありて夕べに白骨となる」とは蓮如上人のお言葉。人の生死は予測不能だけれども、だからこそ”いまここ”を大切にして、父からもらったいのちを全うしていく。そんな気づきをいただいた墓参りであった。

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