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冨士山・正福寺の沿革

正福寺入口 当山の過去帳によると、「当山は富士山と号す。臨済宗円覚寺の末寺として、本尊は釋迦牟尼佛なり。開山は用林昌甫禅師、開創は慶長十五年、開基は石川八左衛門重次なり。不退院善譽淨運と諡す。慶長十八年十二月四日逝去」とある。

また『神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌』は、「東西十八間南北十五間面積二百七十八坪本村東西ノ方ニアリ本郡山ノ内村臨済宗円覚寺ノ末寺ナリ慶長十八年開山僧昌甫ニシテ旧幕府ノ臣石川八左衛門之ヲ開創創建ス」と伝える。

一方で過去帳には「正福寺は東西十八間、南北十五間、面積二百七十八坪、臨済宗円覚寺末寺なり。村の中央に位す。建保四年鎌倉三代将軍實朝公の代、長崎四郎の開基なり、正福寺殿と号すと言う」と記されており、真偽のほどは定かではないが、今は記すに留めておく。

過去帳によるとその後、「明治二十九年三月三日、祝融の災に罹りて全堂宇は焼失し、史実の研究の資料を失う」とあり、また「次いでその後再建せるも昭和十七年四月八日午前十時又々出火のため堂宇本尊すべて焼失す」とある。したがって創建より明治二十九年にいたるまでの間を詳らかにすることはできない。

当山は無住の時代も長く、戸塚町の松寺の住職が兼務して期間もあったが、昭和三十六年三月に当時円覚寺の宗務総長であった金岳良孝和尚が住職となり、昭和四十九年四月二十六日に遷化するまで当山を再興、次いで金岳道一和尚は本堂を再建し、客殿・鐘楼などを建立した。

また当山の西側に上矢部富士山古墳があり、『戸塚区史』によるとこの古墳は六世紀の中頃に造られたもので、各種の埴輪が総数にして八十個体ほど発見されたが、残念ながら現在は見学することはできない。



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